僕にとってコップってやつはなんとなく器の根底にありまして。
なので気に入ったものを見ると焼き物でも木でもガラスでも買ってしまう。
当然作るものもコップが多いのかもしれない。
そんなわけで工房や家には売り物にならない自分のコップとコレクションがわらわらいる。
遊びに来た人なんかはそれぞれ気に入ったの使ってるのだけど、その中で多くの人が手に取り目を細めて使われるコップがある。
残念ながら僕のじゃない。
そうだよね、それいいよね。 そう思う。
使う人の心理もいろいろあるんだろうなとは思うんです。
僕のコップは派手揃いで値段も安くはないと思うのです。
それに比べてそのコップはその対極にある。
デザインされた工業製品では出ないとろりとしたテクスチャ。 使いやすくて値段も素敵にお手頃。 僕のコップの4分の1ぐらい。
そういうものがさ、するりと僕の作ったモノの上を超えて行く。
最高だと思う。
物を作る舞台が違うのだとは思うのだけど、きっと僕は僕のじゃないその舞台の背景や 物の作り方、それを作った人がとても好きなんだと思う。
その成り立ちの中で僕は自分で選んでここにいて、モノを作ってるからもう少しこのまま行く。 まだ何かありそうな気がするし、右と言われれば左だろう と思う。
僕のコップを前にして思うのは表面と光。 テクスチャや色が何かを思い起こさせている気がするのだけど。 それが何かなんて人それぞれだから知ったことではないので想像するしかないのだけど。
でもその僕の対極にあるであろうコップに見えるのは目に映る向こう側。 もう見た瞬間に使ってる自分、そう、場所や光や飲むものまでが見える。 そんな気がする。
そのコップは倉敷から来た。
いつの日かもう少し心が素直になれたらそんなコップを作れたらいいと思うのだけど。 死ぬまで素直になれないんじゃないかとも思ってしまう事もありますなぁ。
そしてまた何か作ることにする。
加倉井
scratch&noise
加倉井秀昭